役名
- 与三郎
- 蝙蝠の安(こうもりのやす)
- 和泉屋多左衛門 (いずみやたさえもん)
- 手代藤八
- 山鹿毛平馬
- 下男権助
- 妾お富
- 下女およし
源氏店妾宅(げんじだなしょうたく)の場

もし平馬さま、ここは、わたくしが店の大番頭、多左衛門が休息所、御遠慮はござりませぬ。



むう、さては貴様が店の後見いたす、多左衛門とやらの妾宅かな。



まあ、そんなものでござります。



しかし、余人に聞かせるも如何。
幸いの、この店先で話そうか。



では、これで承りましょうわえ。
さて、ひょんな事をなされましたな。それでは、先刻お渡し申した、かの香炉(こうろ)の書きつけをば、



面目ないが、取り落としたて。



これは又、お前さまも粗相千万、どうしたものでござります。



されば、その方にも申した通り、先刻かのおつるを見つけた時は、恥ずかしながら心も空、有頂天へ魂は飛び上がり、すぐさま邸(やしき)へ連れ帰り、当人を引きとめし上、赤間源左衛門を以て掛け合わせ、望みを叶(かな)ようと思うところへ。



すりゃ、只今聞いた隼人(はいと)の女房が参ったゆえに、邪魔となって。



おつるもそのまま見のがす始末、勘平ではなけれども、する事なす事鶍(いすか)の嘴(はし)。しかしこの儀はどうともなるが、心ならぬはかの書きつけ、置主(おきぬし)は麗々(れいれい)と身共が名を記しあれば、もしひょっと、面倒な奴に拾われては困るでな。



いやいや、そりゃ、御心配はござりませぬ。何もあれに、真鶴(まなづる)の香炉とぴったり書いてありもせず、言いわけはどうとでもなりましょう。



でも、あの書きつけを持って、香炉を若(も)しも余人が質請(しちう)けしては、こっちの手段(てだて)が。



はて、元利金二百五十両という金高ゆえ、大抵の者には、第一にその金が出来ますまいて。



しかしながら、元利金二百五十両へ、右の書きつけを添え、引替えに香炉を受け取る約束なれば、その書きつけをなくしては、身共が質請けするにもせよ、その方が店で、不承知を申しはせぬか。



そりゃ申します。大切な品を預かりました手形がなくなりましたゆえ、一応は申しますが、その時には、ほかの者では分からぬ程に、手代の藤八に掛け合おう、して手代藤八は、いずこにあるとおっしゃると、そこへわたくしが罷(まか)り出て、さらさらと埒(らち)あけまするわ。



むう、頼もし頼もし、それで身共も安心だわえ。国許よりあの隼人めが女房が罷り越した仕儀(しぎ)といい、延び延びには相ならぬ。むう、
こういたしては、どうであろう。



そりゃ、ようでござります。そこで、お前さまにも申します、かの品が、
こうでござりますじゃ。



むうむう、すりゃあの香炉は、とっくに貴様が質蔵(しちぐら)から、ちょろまかして。



ああ、これ。



いや面白い面白い。さする時にはその虚(きょ)に乗って、あのおつるめを身共の方へ引き上げる、ちょうど手段(てだて)の壺へはまるわえ。



それでは、今宵の事にも行きますまい、いずれあなたにはわたしが店へ。



明日(みょうにち)表向きにて、罷り出るぞ。



そこで、わたくしは店におりませぬが、ようござりますか。ほかの者が出て一応の掛合いいたしたところで、その時貴様ではわからぬ、して、二番番頭の藤八は、いずくにあるとおっしゃるをきっかけに、この藤八が出て、さらさらさらと片づけますわ。



よしよし、手筈(てはず)は万事呑みこんだ。しからば明日参るぞ。



よろしゅうござります。
ああ、もしもし平馬さま、只今申したかの一件。



むむ、しえ、二番番頭の藤八は、



わたくしが出て、さらさらさら。



こりゃ、そのきっかけを、必ずともに、



いや、わたしより其許(そのもと)さまが、



はて、呑みこんでいるわえ。



ははははは、まず香炉の一件も、あの平馬さまが手形をば、取り落としがかもっけの幸い、丁度こっちの手筈の掛罠(かけわな)、あの品はわれらが手で盗み出し、松兵衛にも呑みこませて置いたれば、これもよしと。この上は邪魔になる大番頭の多左衛門めを、仕舞いつけるは、むう、それには、これじゃて。
いつぞや、弟の海松杭めが、何か入用だと言うから、わざわざ届けたこの薬、又戻したが天の与え、これさえ用うれば訳はなしと、その上、きゃつがここの宅へ囲って置くお富とやらいう、あの美しい中年増(ちゅうどしま)を、この藤八が独占(ひとりじめ)。それで、一生の望みも足り、これが当時流行の藤八五文(とうはちごもん)、奇妙じゃて、ははははは。そう巧く行けばよいが。
やあやあ、こりゃ、生憎(あいにく)ぼろついて来たわえ、いっそここへはいって、傘を借りようか、ああ困ったものだ、どうしょうなあ。



もうしおかみさん、この頃の日和(ひより)ぐせにも、困るではござりませぬか。



それでも、きつい降りはあるまいよ。しかしこの傘は、よく礼を言ってすぐに戻すがよいぞや。



かしこまりました。
あれ、どなたやら雨を凌(しの)いで。



どうやら、見たようなお方では、
や、お前さまは、たしかにお店(たな)の。



藤八さんでは、ござんせぬかえ。



やや、お前は、おお、大番頭の御内室(ごないしつ)じゃな。



あいにく降り出して、さぞお困りなされましょう。



さてさて女中方は、目かどが強いわえ。わたしは先達て、多左衛門どのが内にござるその時に、ちょっとここへ来た事は来たが、この源氏店は同じような家(うち)ばかりゆえ、とんと気がつきませなんだわえ。



もう、今に止みましょう。御遠慮なしに少し止めておいでなされませ。これ、お連れ申しな。



さあさあ、おいでなされませ。



いやいや、しかし、女中ばかりの所へ参って、お世話になっては。



なんの、そんなお心づかいがござりましょう。



傘も、お店のが参っております。



まあまあ止めておいでなされませ。



では、お言葉に随(したが)いましょうかな。



さあ、おはいりなされませ。



ははあ、ここに入口がござりますな。



はい、ここは裏口でござりますよ。



まあ、お入りなされませ。



なるほど、こちらが表口じゃな。この間は、これから参りましたゆえ、裏口はとんと勝手が知れなんだわえ。



さあさあ一服、お上がりなされませ。



もうもう、構わっしゃるな構わっしゃるな。



これ、お茶の支度をしや。



はいはい。
まあ、これを一つお上がりなされませ。



もしあなた、御免なされませ。



ただ今すぐに、お煮花(にばな)が出来まする。ま、一つお取りなされませ。



ああもうもう、構わっしゃりまするな。多左衛門どのは、今日は為替(かわせ)仲間の参会へござって、どうで戻りは遅うござろう。その留守へ参って、無遠慮(ぶえんりょ)千万。ああだんだん雨が止みましたわえ。傘を一本お貸しなされませ。これは御内室、お世話になりました。



ああ、もうし、まあお待ちなさせませ。珍しいあなたのお出で、今折角お茶の支度もいたしました。まあ一つお上がりなされませ。そのままにお帰し申しては、内で戻ると、わたしが叱られまする。



ああもし滅相な、お前さんを呵(しか)らせては、わたくしが済みませぬゆえ、そんなら、折角のお志、お煮花を一つ下されましょうか、ははははは。しかしまあ、お前を呵らすまいとわたくしが長居して、かえって多左衛門どのに、わたしが呵らりょうも知れぬわえ。



これはしたり、内の旦那はそのような事には、とんとお構いはござりませぬ。誠に粋(すい)なお気質でござりますわいなあ。



さあ、その粋な多左衛門どのなれこそ、こうしたいきなお富さんを、世話しておかっしゃるてな。とはいえ、女子(おなご)二人の所へ、わしらがような男が、一人長居しているのは、譬(たと)えにも言う猫に鰹節。



ええ。



鰹節は本土佐じゃが、肝腎のこっちが、どら猫かも知れぬわい。



ほほほほほ、ほんに可笑しい藤八さんじゃわいな。



いや、又店向(たなむき)の格式などというものは堅いもので、先ずお前方も、さだめてお聞き及びでもあろうが、わたしどもの大旦那は、二年後から笹目(ささめ)が谷(やつ)の別荘へ、隠居さっしゃれて、店はこっちの多左衛門どのを初め、わたし等が預かっているゆえに、なおなお堅くせにゃならぬじゃ。しかし、多左衛門どのには、別して堅いお人ゆえ、こうした休息所はありながらも、滅多にはござらぬ様子、ところでわたしが呑み込んで、折々は行きなされ行きなされと勧めるようにして、こっちへ泊まりにおこしまする。もし女中衆、あんな堅い人でも、こっちへ泊まりにござって、お富さんと、睦言(むつごと)の痴話(ちわ)などというような事がござりますかな。



おほほほほ、どうでござりまするか、そんな事は知りませぬわいなあ。



ところで、わたしが多左衛門どのに言うには、ああしてお富さんを、内証者(ないしょもの)にしておこうよりは、表向きお内儀(ないぎ)の弘めをしてはどうじゃと言うたれば、いやあれは、ちと仔細(しさい)あって三年以前、田舎より連れ戻ったが、わしが女房にするというわけにも行かぬ者なれば、どこか相応な所があらば、片つけてやりたいと、このように言うてであったが、どうも一えん合点が行かぬて。しかしまあ、お富さんがどこで縁づこうと、真実思う料簡なら、随分そりゃ、ここらあたりにも、望み手はないでもないが、こうやって世話をしておきながら、今さら余所(よそ)へやろうとは、多左衛門どのの料簡が分からぬて。



ほんに、そうでござんす。わたしもこうして三年越し、深いお世話になってはいれど、ほんの床の間の置物同然でござりますわいな。



はあ、それではいよいよ、多左衛門どのの言葉が、本当かしらんて。



はい、お茶がはいりました。
お煮花(にばな)が出来ました。お一つ、お上がりなされませ。



ああこれ、こんなお世話になる事なら、なんぞお土産でも、持って来ねばならぬのじゃ。ああ、どんな事してのけたわえ。



どれわたしは、傘をちょっと戻して参ります。
いえ、こんな事は。



はてまあ、よいわいの。



どれ傘をちょっと戻して参りましょうか。



お前さん一人捨てておいて、身仕舞いしておりましたゆえ、お構いも申しませぬ。もし藤八さん、堪忍して下さんせえ。



なんのなんの、心おきなく何なりともさっしゃりませ。こちらも遠慮なしに、煮花をば御馳走になりましたが、ああ大そうによい茶だゆえ、どうやら浮かされて、今夜はどうか寝られぬようだわえ。



お前さんが浮かされなさんしたら、どこやらでさぞ、嬉しがる女中さんがござりましょうねえ。



あはははは、よしてもおくれじゃ。お富さん、おだてさっしゃんな。
いや、さっき風呂から、戻らしゃんしたその時も、綺麗なものじゃと思ったが、今また身仕舞いさっしゃったら、また格別に美しいものじゃなあ。



ええも、よして下さんせ。



はて、よせと言うて、どうよされるものじゃ。ああ、誰に見しょとて、紅かねつきょぞ、みんな主への心中だて、とは有難い。



ああもし藤八さん、そんな事いわしゃんすなら、早う戻って下さんせ。



なんじゃ、戻れえ。それでもお前が、まあ茶が入るから、ゆるりとして行けと、言うたじゃないかいの。
ああ、思えば、これが浮世の習い、一つ旦那へ奉公しておれど、多左衛門どのは働き者とはいうものの、よくせきに果報者なればこそ、お富さんのような女子に思われ、それを自由に寵愛(ちょうあい)してござるとは、よくよくよい月日の下に、生まれたと見えるわえ。ああ羨ましい事じゃなあ。
その2へ。
参考文献
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