役名
- 与三郎
- 蝙蝠の安(こうもりのやす)
- 和泉屋多左衛門 (いずみやたさえもん)
- 手代藤八
- 山鹿毛平馬
- 下男権助
- 妾お富
- 下女およし
源氏店妾宅(げんじだなしょうたく)の場

これ、安、手前まあなんと思ってここへ来た。われが親父の甚兵衛は、長らくおれが店へ出入りして、それで渡世する身分なれども、手前はよくせきに甚兵衛も見限ってか、十八の時そちを勘当、もううんじょうして心をは直そうとはしないで、とうとう今のその身すがら、蝙蝠安と世間で言われ、忌み嫌われるを幸いに、諸所方々をゆすり歩き。その根性を直さないと畳の上じゃあしなれないぞよ。門口の板に書いてある、山形に丸はおれが店の印だわ、それを見忘れては済むまいが。



へいへい、いやも、面目次第もござりませぬ。



なんだなんだ、おれを待てと止めておいて、安にぐずぐず言うにゃあ及ばねえ。おれが方(ほう)の片(かた)はどうするつもりだ。



そのわけも、今つける。
さあ与三郎どん、こなたもお富が兄だと言わっしゃるからは、他人と思わないから言うのだが、見れば、まだ年は若し、元より賤しい人の子とはどうやら見えぬ褄(つま)はずれ。それに見りゃあ、顔は元より、総身(そうみ)へすさまじい刃物の疵。又過ぎし頃このお富を助けた時、やっぱり身内に刀疵、それといい、これといい、何かわけのある事だろう。しかしこなたの妹ゆえ、達(た)って連れて行きたいと言わっしゃれば、随分こなたに遣りましょうが、今日までここに養って置くには、思う仔細あってのこと、しかしこの訳は今日は言うまい。何かはおいて、ここに金が凡そ十四五両、これをこなたに進ぜるからこれで当分どうかして、堅気になって商売を始めた上、さだめて親御もあろうから、この末ともに苦労をば、かけないようにさっしゃるがようござる。これ安、これをあのお方へ上げてくんな。



へいどうもありがとうございます。それじゃあまあお辞儀なしにお貰い申してまいります。
こう与三、旦那がこの金を手前におくんなさるんだから、お礼を申しな。
へい、唯今直に帰ります。どうもいろいろ相済みません。



こう安、折角のお志だが、こりゃ旦那に返してくれ。



こうこう与三、そりゃ何を言うのだ。今旦那がおっしゃったのは、よく分かっているじゃあねえか。お富さんを連れて行きたけりゃ行くもいいし、しかし今夜というわけには行かねえから、このお金をおくんなさるのだ。いいか、だから今夜はこれで帰るとしねえ。



おいおい安、手前もよっぽどぼんやりしているぜ。これっぱかりの端(はし)た金、返してしまえ。



これさ、手前も分からねえな、何もこれが判証文(はんしょうもん)をする金じゃあなし、いわばただ取る、いや、ただの手前のからだでねえから、この金で小商(こあきな)いでも始めろとおっしゃるのだから、今夜は早く帰ってくれよ。



こればかりの金で帰られるものか。



じゃ手前は、どうしても帰られねえ。



うるせえ野郎だなあ。



やい与三、生言うねえ、手前大そう立派な者になったな。今でこそ、そんな御大層なことを言っているが、まだ部屋にごろついていてよ、盆の上の事からゆすりかたりの文句はだれに教えて貰ったんだ。いや、そんなことは、どうでもいいが、手前にそんな御託をつかれちゃあ、おれが旦那に済まねえ。さあ立たねえと言って立たせねえでおくものか、さあ、立て立て。



こうこう安、何もそんなに言わねえでもいいじゃあねえか。



じゃあおれの言うことを聞いて、今夜はこれで帰ってくれるか。



手前がそんなに気を揉むから、今夜はすなおに帰ってやろうよ。



やあ有難え有難え、それじゃあ早く帰るとしよう。もし旦那え、この野郎わっちに恐れて帰ると申しますから、どうかまあ御勘弁なすって下さいまし。



もし旦那、今夜はこれで帰(けえ)りますが、お富のからだはこのままじゃあ済みませんよ。



おいおい何だな、そんな念を押すにゃ及ばねえや。さあさあ早く帰りな。



ええやかましい、帰りさえすりゃいいじゃねえか。



そりゃ帰りさえすりゃいいが、手前も男らしくもねえじゃねえか、外(ほか)の家とは違うから、帰るものなら早く帰れ。
いろいろどうも有難うございます。いずれそのうちわたくしも、四角な帯でもしめまして、是非お礼に上がります。ええ御新造え、どうぞ旦那へよろしく。へい、どうもおやかましゅうござりました。



しかし、こうして帰るものの、帰ったあとは差しむかい、



へん、やきゃあがるな。



よしてくれ、そんなんじゃねえや。



ああ、今日ほど窮屈な思いをした日はありやしねえ。



手前、あの旦那を知っているのか。



知っているどころじゃねえ、ありゃおれの親父が厄介になっていたお店の番頭さんだ。



道理で、ひょこひょこお辞儀をしていると思ったよ。しかし安、おいらはあの女に言い残したことがあるから、もう一度逢いてえから、気の毒だが手前先へ行ってくれ。



そうか。行くのはいいが、手前どじをくうなよ。



大丈夫だ。それじゃあ別れるぜ。



こうこう与三、手前何か忘れたものはありゃしねえか。



何も忘れたものはありゃしねえ。



おう待て待て、手前も若えくせに耄碌(もうろく)をしているぜ。



でも、おらあ何も忘れたものはありゃあしねえ。



それでもねえと言うのか。まあよく考えてみてくんねえ。



でも、おれは何も、
あ、思い出した。



ありがてえありがてえ。



手前早く言やあいいに。



何だか、きまりが悪いや。



きまりの悪い風でもあるめえ。



いや、そうでもねえよ。



そら、分け前(めえ)だ。手を出しねえ。



よしありがてえ、小判だな。



何だ、こわめしでも貰やあしめえ、両手を出すな。



でも手前。大は小を兼ねるというからな。



そら、いいか。



よし来た。



一(ひ)い二(ふ)う三(み)い四(よ)う五(い)つ。



こうこう与三、分けめえはたった五両か。



五両やりゃあ御の字じゃあねえか。



なに御の字なことがあるものか。五両というなああんまりひどいや、もう少し色をつけてくれ。



手前さっき何と言った、一分でも帰ると言ったじゃあねえか。



そりゃ一分貰って有難うございますと、礼を言って帰(けえ)る場もあり、また百両百貫貰っても帰られねえ場所もあらあ。



何を言やあがるんだ。



そりゃさっきは言ったが、こう与三、よく考えて見ねえ、この金のつるを掘り出したのはおれじゃあねえか。そこを考えたらもうちっとどうかしてくれ。



そんなにぐずぐず言うなら、みんなこっちへよこしねえ。



おっとどっこい、まあいいや手前とおれの仲だ、それじゃあ今夜は五両一分の立前(たちめえ)か。



それじゃあ、安。



与三、別れるぜ。



これお富、血相(きつそう)して駆け出すのは、あの与三郎が後を慕っていくのか。



え。



さ、そうでなくば何ゆえに。



わたしゃお前に面目なさに。



なに、面目ねえ、べらぼうな。そんな事は取りおいて、まあここへ来やれというに。



それじゃというて。



はてまあ、ここへ来やれというに。



あい。



そうして、おぬしゃあ、面目がないといって、どうするつもりだ。



さあ、お前に命を助けられ、三年この方この通り、なに不足なく養うて下さんすその中へ、今のような人が来て、又もお前に苦労をかけ、それを見ているわたしが辛さ。いっそこれなら木更津で、水に溺れて死んだなら、この恥辱をば見まいと思い、それでわたしは。



これ、何を短気なそんな事を。手前を殺してすむ事なら、船から上げたその後に、この鎌倉へ連れて戻り、疵養生(きずようじょう)から後々(あとあと)の、肥立(ひだ)つようにと医者よ薬と丹精をするものかえ。今戻った与三郎が、たとえおぬしが兄にもせよ、また夫ならなお以て、このまま添わせてやる心、大方こんな事があろうと、推量したのは今日の日まで、こりゃあ、今戻った与三郎が、正脈(しょうみゃく)正しい人ならば、後ともいわずあの人に、おぬしの身の上も埒(らち)あけるが、何を言っても今見た始末、向こう疵とか切られとか、世間で噂のある身の上、その心底をとっくりと見届けた上、またどうと、しよう模様もある程に、短気を出さずと落ちついて、おれに任せてこの家に、時節を待って居やれというに。



それ程までに言って下さるお前の心は嬉しいが、今までわたしがこの身を任せたというわけでもなし、よしみもないわたしをば、さほどに思って下さんすお前の心根(こころね)、言うて聞かせて下さんせいなあ。



そりゃあ今言われねえ。まあまあ、おぬしが体がどうなりと、納まりのつくその時には、委(くわ)しく話して聞かせるから、案じるには及ばねえ。



それ程におっしゃるなら、時節を待っていようわいなあ。



番頭さん、急用でござります。



おお、お店の権助どの。



騒々しい。静かに言え。



まあお聞きなされませ。今店へ、どこやらから立派なお屋敷の奥さまというようなお女中と、男の侍が参りましたよ。



なにをこいつ言いおるぞ。女の奥さま、男の侍は知れているわえ。



まあまあ、そのお人が四五年前に入った質物(しちもつ)の事で、内々聞きあわせたい事があって、是非是非、内の旦那にお目にかかりたいと申しますが、どうも大旦那の御隠居所、笹目が谷(やつ)は遠方なり、又藤八さんは今もってお戻りなされぬから、そこであなたを呼びに参りました。



はて、三四年あとの質物とは、むう、どこのお邸がらござったか。



それから、まだもう一つ用がござります。梶原さまのお邸から、明朝までに為替の金が御入用、六百両持ってくるようにと、さっき申して参りました。



梶原さまから、御用が出てか。



わたしが思うには、大方若殿源太さまが、梅ヶ枝の身請けの金と、鎧の遣り繰りに、御入用かと存じまする。



何を馬鹿な。何にしても行かずはなるまい。



それではあなた、このままに又お店へお出でなさるのかえ。



もうかれこれ四つにもなろう、どうで用が片づくと、戻るには遅くなる。今夜は店へ泊まるから、戸締りをして寝るがいいわ。



しかし大番頭さんを呼びに来るとは、ちと、不印(ふじるし)な役廻りだ。



またそのような事を言わずとも、ずいぶん途中を気をつけて、



そんなら、お富。



旦那さん。



明日、逢おうわ。



さっきはまあ、思いがけない与三郎さん、よもやこの世に存(ながら)えてはござんすまいと思うたに、命が互いにあればこそ、まためぐりあう嬉しさも、過ぐる月日のそのうちに、以前に変わりし今の身の上。ああなんとしたものであろうなあ。
エエ誰だえ、よしなさんせ。



ああこれ、やかましゅう言うまい、わしじゃわしじゃ。



藤八さん、お前今までどこにおいでだえ。



最前の強請(ゆすり)の騒ぎ、台所へ逃げ込んだそのうちに、多左衛門どのは戻られるし、帰るには帰られず、今まで忍んでここに居ました。



内では、お店から迎いが来る、大そう店が忙しい様子、悪じゃれをせずと、帰りなさんせ。さあさあお帰りお帰り。



これは又、お前でもないぞえ。お富さん。最前およしどのを頼んで、佃長(つくちょう)へ酒肴(さけさかな)を誂(あつら)えて、多左衛門どのの留守中に、お前に一つ上げようと思ったところへ、強請めがうせたゆえ、ちゃちゃ無茶苦(むちゃく)。下女のおよしは強請の騒ぎで、驚いたところをばおどしかけ、法をもって宿へとまりがけにやったれば、多左衛門どのは店へ泊まり、今宵はわしがここへ、最前のような悪い奴のうせぬよう留守番して、お前とさしで一つ飲み、楽しむつもりじゃ。これお富さん、。一つ上がらんかいなあ。



ええ、よして下さんせ、よい機嫌な。それどころではないわいなあ。



はて、そこを一つ飲んで、わっさりと気を発散するがよいわいの。
これこれ、気晴らしに一つお上がり。



わたしゃ、酒(ささ)はたべぬわいなあ。



はて、上がる所では、上がろうがな。これ、ちょっとちょっと。



ええ又しても、いけ煩(うるさ)い。



こりゃもう、自棄(やけ)じゃ。
あいたたたた。
やや、おのれは、はああああ。



や、与三郎さんかえ。



お富、いけっ太(ぶて)い野郎だなあ。



そんなら、今の様子をば、



今のどころからさっきから、安を帰して裏から忍び、内のあるじにおぬしが話も。



それも詳しくお聞きかえ。



一間(ひとま)へだてた障子越し、大てい今のあらましは。



それでわたしも落ちついた。よく戻って来て下さんした、もし、いろいろお前に言う事が。



おれも手前に、話があってよ。
おい番頭さん、藤八どの、こんたはどこへ。



ちょっと、尿(しし)しに。



いや、貴さまには用がある。ここへ来やれ。来いというに。来られずは、いっそおれが。



こりゃもうたまらぬ。



滅多にわれは逃がさねえ。



はあ、そんならわしに、見せびらかして。



知れた事だ。そこで存ぶん見物しろ。



はははあ。



与三さん。もうなんにも心づかいはござんせぬ。まあゆるりと上がりな。



こいつは妙だ。たしかにいま聞けばこの酒は、あの野郎が買ったのだ。



あい、奇特な人さね。もし与三さん。今夜は内の旦那も、お店に用があって来ることではなし、泊まっておいでな。



なに泊まれ、内証はどうでも表て向き、囲われているおぬしが家、亭主の留守には、もうもう懲り懲りした。



あれ又、矢張りそんな事、亭主というは愛しいお前。



今夜が嬶(かか)あと言初(いいはじ)め、とんだ明けを追う奴さ。ははははは。



さあお燗が出来た。一つお上がり。



こいつはあいいわえ。あのべらぼうが買った酒を、亭主のおれが飲むというは、恩もひらもない事だ。



こりゃ、酷い目に逢うものだ。間男のまの字までも行くか行かぬか知れぬうちに、この通り縛られて、買った酒まで飲まれれば沢山だ。ああ、今日は如何なる悪日ぞや。はああ。



これお富、さっきおれが亭主だと打ちまけて、てきぱき方をつきょうと思ったを、なぜ、兄だと言い張ったのだ。



亭主と言えばもうそれまで、それよりは兄さんだと言っておいたら、又なんぞお前の力になる時のために、却ってよかろうと、それでわたしがあの時に。



おれもそこらと察したが、なにあの時、一か八か方をつけたもよかったろう。



それじゃというて、いま陰で聞かしゃんしたら疑いは、お前晴れたであろうが。



さればなあ、一夜も枕を交わさぬおぬしを、これ程までに世話をする、主の心が、わからねえわえ。
なんだ、そこに落ちているのは紙入れじゃねえか。



ああ、開けては悪い悪い。



どれ。
なんだ、一つ金一両二分なり、若浦さま、浪の戸さま、芸者一組、台一つ。こりゃ大磯の書き出しだ。



これ、ここに何か包んだものが。



どれ。
むう、海内無比(かいだいむひ)、この薬は、この近所だ。おおそうだ。画師の程よしが頼まれて弘める薬よ。



そりゃ、なんだえ。



猪口屋薬(ちょくやぐすり)を、見たような物さ。



おや、いやだのう。



なんだ、兄藤八さまへ、海松杭(みるくい)の松より。



どうやら覚えの、その名宛(あて)。



それ、読まれては。



これなる手紙に海松杭の、松という名は木更津で、手前もおれも怨みのある奴。



兄藤八さまとあるからは、



さてはこいつは兄弟だな。



道理こそ、よく似た顔つき。



とんだ奴に、廻り逢うたものだ。



早く、読んで御覧なねえ。



どれ。
「先達(だっ)て、その地へ罷(まか)り越し、お話し申し候ふ彼の一品(ひとしな)、質入れの儀、其許(そのもと)さま御取り待ちにて、百五十両に御預け下され候ふ趣悉く、右は下総千葉家の重宝(ちょうほう)真鶴(まなづる)の香炉と申して大切の品ゆゑ、其うちにぜひぜひ、この方へ請け戻し候ふ間、さやう御心得下さるべく候。なほ面談の上、万々申し述ぶべく候ふ。以上。猶々(なほなほ)、この一薬、不用に相なり候ふ間、其まま御戻し申し上げ候ふ。よろしく御計ひ下さるべく候ふ以上。」
むう、この手紙の文体では、千葉家の重宝、真鶴の香炉を質入れした密書、むう。
こいつは滅多に逃がされねえわえ。



もし、ここにも薬の包みがあるぞえ。



なんだ、能書きがあるわ、どれどれ、
「南蛮(なんばん)秘法(ひはふ)、アタリマンス、この一薬を酒にて和(わ)し、服さしむる時は、人命を断つ事即妙(そくめう)なり。まつた右の一薬に、辰の年月日時揃ひし男子の生血を混じ服する時は、年久しき金瘡(きんさう)古傷(ふるきず)たりとも痕なく治する事神の如し。」
こいつは稀代(きだい)な薬だな。



そりゃまあ、幸いな、お前の顔や体の疵、治すには丁度よいではないかえ。



違いない。しかし取り得る事の出来ねえのは人の生血だ。当時はおれが面や体の疵も仕事の元手、治さねえ方がよかろうよ。時にこの野郎を忍ばせて置く入物はあるまいか。



あい、丁度、およしがこの葛籠(つづら)。



中へこやつを。



こりゃ、たまらぬわ。



こいつを囮にあしたの仕事。



もし、それはそうと与三さん。どういうわけでこの手紙の、千葉の屋敷の宝をお前が。



その香炉は、ちっとこっちに入用(いりよう)ゆえ、これ、



そんなら葛籠の藤八を、玉に遣って和泉屋へ。



出来合間男、つつもたせ。



何かの手筈(てはず)は、



寝ながらゆるりと。



どうやら、味な。



からんだ悪縁(あくえん)。



切ってもきれない。



命がありゃあ。
話せるなあ。
ひょうし幕
参考文献
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